相馬中村城跡・相馬中村神社

相馬中村城の由来

相馬中村城(馬陵城)は江戸期において相馬藩の居城です。その歴史は古く、794年〜802年に坂上田村麻呂が蝦夷征討を行った際に中村の自然丘陵を城柵として利用したとする伝承が残っています。また、1189年に源頼朝が平泉攻略の帰途の際にこの地に野営したとする言い伝えもあります。1337年にはこの地を治めていた中村朝高が中村館を築いたと言われています。戦国時代になって伊達家で天文の乱が起きると、相馬家がこの地に侵攻して中村城に入城しました。

相馬家は鎌倉時代後期の1326年から安土桃山時代の1598年まで小高城(南相馬市小高区)を居城としていましたが、1598年3月には牛越村(南相馬市原町区)に居城を移しました。しかし1600年に関ヶ原の合戦が起き、相馬家は東軍と西軍のどちらにも味方せず中立の立場を取ったため、所領が没収されて改易となりました。

この所領没収に対して当時の藩主・相馬義胤の嫡男である相馬三胤が江戸に赴き(この時に相馬三胤は名前の三が石田三成を連想されることを危惧して相馬密胤と改名しています)、徳川家康と徳川秀忠に直訴して陳謝しました。かつて仇敵であった伊達政宗の取りなしもあり、相馬家は所領が安堵されることとなりました。

相馬義胤は隠居し、相馬密胤が藩主となりました。相馬密胤は江戸幕府の重臣であった土井利勝から1字をもらい、相馬和胤と改名しました。相馬和胤は改易のあった牛越城は縁起が悪いとして小高城に拠点を戻しました。しかし、それでは仙台の伊達家に対して北側が手薄となるので、1611年に相馬家は中村城(馬陵城)を造営してここを居城としました。

元は天守のあった城ですが、1670年に落雷により焼失し、それ以後は再建されることはありませんでした。戊辰戦争では新政府軍に包囲されて落城し、新政府軍の野戦病院が置かれました。

相馬中村城跡の写真

相馬中村城跡の見取り図。

燈篭が多数置かれています。右手は長友グラウンド(南二の丸)。当初は重臣の屋敷や厩が置かれていましたが、厩が東三の丸へ移され、常小屋(営繕所)が設置されました。

中村神社入口。相馬では狛犬以外に御神馬も置かれています。

中村神社北野天満宮。

中村神社の親子スギ。御神木になっています。

相馬神社(中村城本丸)へ登る途中にある黒橋。

相馬神社。

相馬神社の隣が本丸跡です

相馬神社の裏の古井戸。心霊スポットにもなっています。

相馬藩は江戸時代に二ノ宮仕法を取り入れて藩政の立て直しに成功したため、二宮尊徳の銅像が建てられています。

本丸に至るもう一つの橋・赤橋です。

赤橋の下には戦時中の防空壕の跡があります。