相馬には松川浦と呼ばれる内海があります。松川浦は小松島とも呼ばれ大小様々な島々があり、日本百景の一つにも選ばれています。松川浦では漁業が盛んで海苔の養殖も行われています。東日本大震災と原発事故で甚大な影響を受けましたが、現在は少しずつ漁業が再開されていっています。今回はこの松川浦の歴史を振り返り、松川浦で塩の製造が行われていた歴史を辿っていこうと思います。
松川浦とは
松川浦は、相馬市の東部に存在する南北に長い潟湖(内海)です。長さは南北に5キロメートル、東西の幅は最大3キロメートルで、面積は5.9平方キロメートルほどあります。水深は最深部でも5.5メートルほどでかなり浅い潟湖です。海水と真水の混合する低塩分の汽水湖でもあります。
松川浦は、阿武隈山地から太平洋へ流れ込む宇多川と小泉川の河口に形成されています。松川浦の東側には沿岸流で堆積された長洲磯が続き、大洲海岸へ繋がっています。松川浦の北側では、第三紀上層部からなる台地(水茎山)で遮蔽され、鵜之尾岬が東端に突き出しています。松川浦の西側は、宇多川と小泉川の三角州が広がっています。
松川浦にはかつて沿岸洲であった中州が南北に細長く横たわっており、大小様々な島が点在しています。その景観は小松島とも呼ばれ、日本百景の一つにも入っています。
松川浦の海水の流入口は鵜之尾岬の下(飛鳥湊)にありましたが、たびたび砂で埋まって松川浦が閉鎖されて排水できず、松川浦の沿岸が氾濫を繰り返すため、1908年から水茎山の細部の松沼浜の岩層に掘削を行い、外洋へ通じる幅80メートルほどの水路で出入口としました。これが現在の松川浦港の出入口となっています。
相馬中村藩の藩政時代には藩主の行楽地なっていましたが、沿岸住民は海藻類、魚介類の採取などが許可されてきました。
松川浦での製塩業の始まり
松川浦にある塩釜神社の由来によれば、松川浦での製塩業は今からおよそ400年前の元和元年(1615年)に始まったと記されています。1615年から遡ること4年前の1611年12月2日、慶長三陸地震が発生しました。この時の津波によって相馬の沿岸も壊滅的な打撃を受けました。
相馬藩の記録である『利胤朝臣御年譜』では「海邊生波ニ而相馬領ノ者七百人溺死」と700人が溺死したと記録されています。この頃に測量のために相馬を訪問したスペイン人のヴィスカイノ提督は、ノビスパニア副王に宛てた報告書の中で、城は損壊し、海岸の村落も被害を受けていたと報告しています。
彼(相馬利胤)は、其城内に於て快く司令官を迎へ、城は破損し、再築中なるを以て城内に迎へざるを謝し、同市も海水の漲溢に依り、海岸の村落に及ぼしたる被害の影響を受けたりと言ひ、其通行の際竝にイスパニヤの船又は国民同所に来る時は、全領内に於て喜んで十分なる給与をなすべしと述べたり。而して翌月曜日我等が行きて海岸及び余り用をなさざる二つの入江を測量する為め、同市に滞在せし時に其約を果したり。
大きな被害を受けた相馬領の松川浦の和田村に、元和元年に下総国行徳(現在の千葉県市原市)出身の堀内玄蕃という人物が来て、製塩の方法を伝授したと記録されています。
堀内玄蕃は神社の神礼を司る神宮職でしたが、諸国を徘徊して和田村に来たときには60歳くらいであったそうです。堀内玄蕃は和田村に留まっているうちに、この浦辺が故郷の行徳の地によく似ていて、良い塩場になると見込んで製塩の方法を和田村に伝授したと記されています。下総国の行徳は戦国時代から製塩が行われ、江戸時代には天領として幕府直轄の塩田事業が行われていました。
堀内玄蕃より行徳の塩田技術を聞いた和田村の人々は、鈴木惣右衛門兼久を中心に製塩事業に乗り出しました。和田村に近い小泉川の河口一帯を塩田に開拓し、その辺一帯を玄蕃壇と名付けています。堀内玄蕃は「自分が死んだら、塩田の見えるところに葬ってほしい」と遺言していたので、彼の死後に玄蕃壇に玄蕃明神として祭ったと伝えられています。この場所は現在は塩釜神社となっていて玄蕃明神が合祀されています。
境内には堀内玄蕃の墓石柱も建立されています。
史料には明示的には残されていませんが、慶長三陸地震の津波によって大きな打撃を受けた松川浦周辺を塩で何とか救いたいという思いが、堀内玄蕃と和田村の人々にあったのかもしれません。
相馬の製塩業の発展
江戸時代後期になると、相馬中村藩は相次ぐ飢饉に苦しめられ、とりわけ天明の飢饉によって大きな打撃を受けて藩の人口は激減して財政は窮乏しました。
相馬中村藩では二ノ宮金次郎の二宮仕法を「御仕法」として取り入れて質素・倹約を中心とする藩政の改革に乗り出します。また相馬中村藩家老の久米泰翁は飢饉によって減少した人口を補うため、当時幕府によりご禁制とされてきた移民を受け容れることを決断し、北陸の浄土真宗と協力して藩内に北陸からの移民を住まわせました。
久米泰翁は製塩にも注目し、製塩を奨励する政策を推進しました。松川浦だけではなく相馬領内の新沼浦の塩田開拓も進めることになり、相馬領内の入浜式塩田の製塩業が発展しました。1864年に下総国行徳の喜平次という人物が相馬中村藩の許可を得て、松川浦内・十二本松周辺の塩田開拓を進めました。これにより2万坪あまりの広大な塩田が造成されました。
塩田事業は松川浦地区だけではなく、新沼浦・谷沢浦でも盛んに行われ、『奥相志』によると相馬領内の柏崎・岩子・原釜・蒲庭・新沼・塚部で製塩が行われたと記されています。『相馬御経済略記』には製塩による藩の売上が「文政6年 50,596俵(12,649石)」であったという記録が残っています。特に岩子の製塩が盛んで、この岩子の文字島には公衙(役所)が置かれました。現在も松川地区周辺には製塩のために使われた岩穴を見ることができます。
塩は相馬中村藩の重要な年貢収入となり、年代は不詳ですが松川浦では塩の品質によって以下の年貢が定められたとする史料が残っています。
塩場年貢定
岩子松川浦上釜
上々壱貫二百文
上々壱貫百文
中壱貫文
下九百文
下々八百文
相馬で製塩された塩は、伊達地方だけではなく遠く会津にも運ばれ大きな利益となりました。1685年(貞享2年)の会津若松城下の「新町諸品之覚書」によると「塩商売仕候儀は、越後、石城、相馬筋より致持参侯を」と会津において相馬からの塩の流通があったことが記録されています。
幕末において相馬中村藩は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と戦いますが、相馬中村城を包囲されて降伏しました。その後は仙台藩攻撃の先鋒を務めることとなり、藩の財政は大きく悪化した状態で廃藩置県を迎えることとなります。しかし明治13年になると、明治政府は松川浦の中州北側に製塩試験場を設立し、技術開発や新しい機械を導入して地元の製塩業の啓蒙活動を行い、再び製塩業が盛んになりました。
日露戦争と相馬の製塩業の衰退
しかし、明治20年頃を境に相馬の製塩業は停滞していくこととなります。その要因の一つには全国で様々な製塩会社が設立され、価格や品質競争が激化したことが挙げられます。さらにこの状況に決定的な影響を与えたのが日露戦争でした。
日露戦争の勃発によって日本政府は多額の戦費調達に悩まされていました。このため政府は1904年(明治37年)に塩専売法を制定し、塩を国家の専売事業として統制すると定めました。まず大蔵省の主税局に専売事業課と専売技術課が設置されました。主税局の管轄で全国22箇所に塩務局が開設され、塩の製造や販売は許可制となりました。
この頃の中村町では、政府直轄の塩務局に引き取られる値段が極端に安いため、闇売り(ノメリ)が横行しました。闇売りでは塩務局を通さずに直接消費者に販売され、政府買い上げの3倍ほどの値段で売られていました。やがて松川浦周辺では生活が苦しく廃業するものが相次ぎ、明治43年には福島県の塩業は全面的に廃止されることになりました。
松川浦は海苔や牡蠣の養殖事業へと転換し、救済事業として1908年〜1910年に松川浦新河口の掘削工事が行われました。このようにして現在の松川浦周辺の漁業の原型が形成されていくこととなります。
1919年に相馬郡の福浦村の村長であった鈴木正宣らが、帝国議会の衆議院議員であった近藤達児の紹介で、政府に塩専売法の改正を求める請願を提出しています(請願文書第2043号)。
請願文書第2043号
塩は人の生活に欠くべからざるものなり。然るに政府は税源を求むるため専売法を設け又明治43年中1府27県に製塩業を禁止せられたるは税制、経済、食糧の各問題より観察して極めて不合理な政策なり。殊に福島県相馬郡、新沼、松川、耳谷の3浦は地勢潮流共に天然の塩地に適し、古来塩田製塩を生業と為し子孫相伝へて一家を維持したるも、一朝製塩業禁止の命に接するや、里民途に迷い相離散し其の惨状名状すべからざるものあり
鈴木正宣らは切々と製塩業を行っていた民衆の惨状を訴えました。しかし政府がこの嘆願を聞き入れることはありませんでした。
第二次世界大戦と相馬塩業株式会社
1930年代後半になると日中戦争の長期化などで日本では物資が欠乏し、塩も不足するようになりました。相馬でも塩は厳しい配給統制下に置かれ、1941年12月20日の福島民報では「1戸4升以上絶対に売らず 中村で塩制限」という記事が出ています。食塩の買い占め防止のため相馬の中村署管内の各町村では、塩販売を行う業者に販売台帳を記入して塩を購入した人物の名前と住所を記入し必ず捺印を行うように決められたと報じています。
1944年4月、元衆議院議員の釘本衛雄らの働きかけにより国策会社として相馬塩業株式会社が設立されました。
相馬塩業株式会社は、相馬地方を巨大な塩田として再開発して内地の塩の窮乏に備える構想の下につくられた会社です。最盛期には日本人と朝鮮人あわせて200人くらいが相馬塩業株式会社で働いていました。1944年4月15日付の福島民報では相馬塩業株式会社について次のように触れています。
原釜に日本一の塩田
相馬海岸、新沼浦干拓地(中村町ほか三ケ村)に内地で最大の塩田がいよいよ実現する。これは昨冬来、前代議士釘本氏が中心となって計画していた事業で、去る十二日付正式に内認可あったので同氏が創立委員長となり、直ちに資本金五百万円の「相馬塩業株式会社」の設立に取かかったが、塩田は取敢ず二百町歩を目標に、毎年五十町歩づつつくり四ヶ年で完成する計画で、この事業には約二千万円要するが、政府から約半額の補助があり、資本金で不足の分は借入金をもって充てることになっている。本認可をまつて近く事業に着手するが明春二月までには塩およびにがりを相当数量生産し、専売局に納入する見込である。
最新式製塩法 内認可あり近く事業着手
この塩田計画は昨冬来、大蔵省、専売局および仙台地方専売局から三回にわたって係官が来県し実地調査した結果、東北地方としては理想的な塩田となると太鼓判が押され、資本関係も大体順調に纏まったので、三月廿九日正式に内願書を提出したところ、『時局下必需品であり国策にも適ひ場所も適地である』として半月たらずで内認可の指令あったのである。塩田は取あえず二百町歩を計画しているが、正式に事業開始の書類を提出する時には二百五、六十町歩になる見込みであり、設備も過般の閣議で全国の塩田式を一斉に改造させることになった砂層貫流式を最初から採用するので最新鋭の製塩法である。なお資本関係は干拓の所有者である飛鳥組が四割、東北興業が四割、残りの二割を地元で持つことになる。
しかし戦局の悪化による物資不足で製塩は思うように進まず、1945年になると連合軍による日本本土空襲が激化し、相馬も空襲に見舞われることになりました。1945年5月には相馬塩業株式会社の建物が爆撃を受け損壊し、1945年8月12日には富岡沖の航空母艦から飛び立ったグラマン型戦闘機が相馬塩業に機銃掃射を行い27人が犠牲になったと記録されています。これらの空襲により相馬塩業の製塩事業は停止を余儀なくされました。
戦後の相馬塩業株式会社
1945年8月に日本は無条件降伏してGHQの占領下に置かれました。相馬塩業株式会社の設立を働きかけた釘本衛雄も福島市の市長になっていましたが、GHQによって大政翼賛会の推薦議員であったという理由で公職追放により職を追われました。
しかし相馬塩業株式会社自体は戦後に操業を再開することになります。1947年2月21日に福島民報が「相馬塩田の一部近く完成」という記事を掲載し、第3・第4工区の完成の見通しがついたと報じています。しかし、その翌年の毎日新聞の福島版には「燃料難で自滅 相馬地方の四千三百の製塩所」という記事を掲載して次のように書いています。
ひところ塩小屋で海岸を埋めた自給製塩所も、高い燃料代と関西から流れ込んだ安い塩におされて、小さな業者はすっかり身動きが取れず、四千三百を数えた相馬郡の素水式自給製塩も毎日廃業届が続出、現在どうにか製塩しているのは一割にもみたず、このままでは浜の製塩は自滅するよりほかない。
この後に相馬塩業は燃料の高騰により事実上操業が停止しますが、1956年に神武景気で日本経済が高度経済成長に差し掛かった頃、新製法を生みだしたとして操業を再開しました。1956年2月18日の福島民報では「わが国製塩界に大革命をもたらす」と報じています。
相馬塩業 近く新製法で操業
知事も融資を斡旋 原価格安の真空冷凍法
相馬市の相馬塩業株式会社はこのほど真空冷凍法による製塩に成功、近く専売公社の許可を得て操業を始めるが、この製法は同社中野友礼会長が長年かかって発明したもので、上質の塩を今までの半分のコストで作られるだけにわが国製塩界に大革命をもたらすだろうといわれている。またこの製塩法によると同時にソーダ工業も起すことが出来るといわれ、地元相馬市と県では製塩業と一緒に地元資本による一大工場地帯を相馬につくると大張切りで大竹知事も十七日、北部浜通り開発の試金石だと五百万円の融資の世話を買って出るなど注目されている。
日本塩業は東北協力開発株式会社の経営協力を得ることに成功しますが、1959年に政府が国内の塩の過剰生産を抑えるために塩業整備臨時措置法を制定しました。この塩業整備臨時措置法により、専売公社が相馬塩業に対して工場の閉鎖を指導しました。これにより相馬塩業は廃業することになります。以後、相馬の塩業は再建されることなく今日に至りました。
2011年3月11日
2011年3月11日。東日本大震災で巨大津波が松川浦に押し寄せました。津波が押し寄せる中、塩釜神社に避難して津波から生き延びた人々もいました。塩釜神社は相馬に製塩技術を伝えた堀内玄蕃によって和田村の人々がつくった玄蕃壇の上に建てられています。
堀内の爺様がまた相馬の人々を助けてくれたのではないかと思いました。
参考文献
- 原釜・尾浜・松川郷土史研究会『ふるさとのあゆみ 浜のくらし』
- 相馬市『相馬市史6 資料編Ⅲ 近世2』
- 相馬市『相馬市史7 資料編Ⅳ 近代・現代』
- 相馬市『相馬市史9 特別編Ⅱ 民俗』
- おはようドミンゴ 松川浦の空襲記録